ポール・セザンヌ / Paul Cézanne
生年月日 | 1839年1月19日 |
死没月日 | 1906年10月22日 |
国籍 | フランス |
表現形式 | 絵画 |
ムーブメント | 後期印象派 |
ポール・セザンヌは後期印象派のフランスの画家。
初めは印象派として活動し、印象派展にも何度か出展していましたが、1880年代から印象派のグループを離れ、伝統にとらわれない独自の絵画を探求し、後に、ポール・ゴーギャン、フィンセント・ファン・ゴッホとならんで3大後期印象派の1人として、美術史に名を残しました。
セザンヌは、19世紀の芸術概念から20世紀初頭に発生した過激な前衛美術の架け橋となった画家。特にキュビスムの芸術概念に大きな影響を与えました。
彼の作品は、試験的なブラシストロークが特徴で、平面的な色使いと細かな筆致を使って画面を構成しています。それは、彼が対象を徹底的に研究した結果です。
マティスとピカソはセザンヌのことを“近代美術の父”と語っています。
画家セザンヌ: 略歴
画家セザンヌ: 幼少期
ポール・セザンヌは、1839年に南フランスのエクス=アン=プロヴァンスという町で生まれた。セザンヌは、養い親である祖母と叔父のルイからマドレーヌ寺院で洗礼を受けます。晩年に敬虔なカトリック教徒となりました。
セザンヌの父親は、セザンヌ・エ・カバソル銀行の共同設立者で、幼いころからセザンヌは将来の生活が保障されていました。父の力入れもあり、法学部に進み弁護士を目指しますが、同時に、ドローイングの授業も続けていました。
ところが中学校時代に、後に小説家となったエミール・ゾラと知り合うようになり、後にゾラから次のように言われ画家の道を志すことになります。
「僕が君の立場なら、アトリエと法廷の間を行ったり来たりすることはしない。弁護士になってもいいし、絵描きになってもいいが、絵具で汚れた法服を着た、骨無し人間にだけはなるな。」
画家セザンヌ: パリへ
セザンヌは、先にパリに引っ越していたゾラを追って1861年4月パリへ移ります。エコール・デ・ボザールへの入学が不合格となり、私塾のアカデミー・シュイスに通います。当時のパリは印象派の最盛期でした。この時パリに住んでいた印象派の画家モネ、ピサロ、ルノワールなどと交友を深めました。
午前中はアカデミー・シュイスに通い、昼からはルーヴル美術館か、エクス出身の画家仲間のアトリエでデッサンなどをしていたようです。
セザンヌは印象派のカミーユ・ピサロと特に親しくなるが、師匠と弟子の関係のようでした。ピサロから造形的な部分で影響を受けたのです。
セザンヌのこの頃の作品は、暗い色彩で描かれていました。全体的に想像して描いてます。ドラクロワやクールベのようなロマン主義的な描き方でした。後に、直接観察で描くようになり、徐々に明るい色使いになっていきました。
その後の10年間、2人は旅をして風景画を描き、共同創作するようになります。そうするうちに、明るい印象主義の技法で描くようになっていきました。
画家セザンヌ: パリ・サロンに拒否され続ける
セザンヌの絵は、1863年に落選展で初めて展示されましたが、パリ・サロンは1864年から1869年まで、セザンヌを審査で落とし続けました。
やがて世間の印象派に対する評価にも変化が現れ、1868年には、モネやルノワールなど一部の印象派の画家の作品が入選します。その一方でセザンヌの作品は落選に次ぐ落選でした。
その後、セザンヌは1882年までサロンに出品し続けました。その年、同僚のアントワーヌ・ギュメを介して、サロンに《Portrait de M. L. A》という作品を提出。おそらく「Portrait of Louis-Auguste Cézanne」の略で、《レヴェヌマン」紙を読む画家の父》の作品の事を指している。
《レヴェヌマン」紙を読む画家の父》は、セザンヌの唯一パリ・サロンで成功した作品でしょう。
画家セザンヌ: 印象派から離れる
印象派に影響を受けたセザンヌでしたが、やがて印象派の技法に不満をいだくようになっていきます。そのため、セザンヌは、第4回印象派展以降は参加せず、1878年に印象派とは一線を画するようになっていくのです。
セザンヌはモネを称えながらも、「モネは1つの目にすぎない」とい言い切り、視覚認識を根本的に変革しようとしました。
セザンヌは、制作場所をパリから故郷エクスに戻しました。
1895年、ピサロの勧めでパリでセザンヌの最初の個展が開かれます。この個展では、セザンヌの作品に対して批判的な意見もまだありましたが、高く評価する声も上がるようになっていました。
セザンヌが独自の絵画世界を完成させるのは1880年以降のことで、古典主義の統合と言えるような偉業でした。
画家セザンヌ: キュビズム理論の基礎構築
ではセザンヌは印象派のどのようなところが不満だったのでしょうか。
それまでの印象派の画家の作品は、暗い色彩を使った絵画が主流でしたが、ピサロの絵の影響もあり、セザンヌは作品は明るい色を取り入れて行くようになります。
セザンヌが印象派の画法の中でもう一つの不満は、印象派の作品の多くが、瞬時に感じ取った印象を絵にするという点にありました。つまり、印象派はそこに描かれる物の形状にはあまり配慮がなされていないということでした。
セザンヌは、このことが不満で、漠然としたイメージで描くのではなく、しっかりとした画面構造を持つ絵画を創作したいと思ったのです。この技法は「構築的筆致」と呼ばれます。
セザンヌは「印象派をうつろでないしっかりしたものとして、美術館にふさわしい芸術にしたい」と語っています。
この構築的筆致こそが、後にピカソが取り入れた「キュビズム」に繋がっていく新しい手法でした。そしてこれこそがポール・セザンヌが「近代絵画の父」と呼ばれる所以です。
セザンヌが着目したのは、1つの対象でも多角的な視野から観察し、そこで見えたイメージを3次元的に再構築するという手法でした。
静物や風景の形状を幾何学的な形で表現。そのため一つ一つの形状を見ると面取りされたいくつもの面の集合のように見えます。
ただし、1895年以降になると、色彩の方も多様化してきます。形状を細かくし、それらにより多くの色彩を配することによって、明暗や量感を表現しようとしました。この手法は「転調(モデュラシオン)」といいます。
セザンヌの手法は試行錯誤を繰り返し、気の遠くなる時間を費やして習熟していくものでした。
セザンヌの新しい技法は、当時フランスで創作活動をしていたゴッホやゴーギャンにも影響を与えました。
画家セザンヌの作品解説
「メダンの館」
セザンヌの初期の頃の作品「メダンの館」には、すでにそれまでの印象派とは異なるセザンヌ独自の画風が現れています。
この絵は友人ゾラの家を描いたものですが、まず目に入ってくるのが垂直に並ぶ木々の幹。そして次に気になるのが、単調なストロークで描かれた土手と川の流れです。
印象派のぼんやりとした感じとは違って、線や形がはっきり表現されていますね。
「果物籠のある静物」
「果物籠のある静物」は、セザンヌが積極的にキュビズムを取り入れた時期に描かれたものです。
果物籠を見ると、正面から見て描いているように見えますが、壺は斜め上から見ているように見え、また他の容器は傾いているようにも見えます。つまり、ここで多角的な視点から描いていることがわかるのです。
また、鮮やかな色彩も、それまでの印象派の作品には見られなかったものです。
「サント・ヴィクトワール山」
セザンヌの作品の中で、同じモチーフで最も多く描かれた代表作「サント・ヴィクトワール山」です。
サント・ヴィクトワール山は故郷エクスにある標高1011mの山。セザンヌは亡くなるまでこの山を描き続けました。その数、60以上にのぼります。
作品の題材はサント・ヴィクトワール山ですが、画法的にはキュビズムと構築的筆致を用いて、天気や一日の時間帯によって変化する山の表情を巧みに捉え描いています。
特に、岩山でもあるサント・ヴィクトワール山は幾何学的な形状で表現するのに大変適した題材だったとも言えます。
「リンゴとオレンジのある静物」
「カード遊びをする人々」 1890 – 1892
「カード遊びをする人々」 1894-1895
「女性水浴図」
ピカソの絵画「アヴィニョンの娘たち Les Demoiselles d’Avignon」にも影響を与えたとされる。
画家セザンヌの作品が見られる美術館
■国立西洋美術館
「葉を落としたジャ・ド・ブッファンの木々」
■横浜美術館
「ガルダンヌから見たサント=ヴィクトワール山」
■ポーラ美術館
「プロヴァンスの風景」
■諸橋近代美術館
「林間の空地」
■ひろしま美術館
「ジャ・ド・ブファンの木立」
「曲がった木」
「座る農夫」
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