2022年度
第20回 ZEN展 東京都美術館
祝 準優秀賞 受賞
300人を超えるアーティストの中から
上位15人に選ばれました。
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冒険は楽しい♪
画家として何処に辿り着くのか
危険と隣り合わせ
ワクワクドキドキ!
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オジサン画家MUUです。
ボクは今、画家として
世界へ癒しの光を届けるために
53才から夢を追いかけ直しています。
若者から年配の方まで
夢を追いかけられずにいる人に
「原点回帰画家」として
夢を追う楽しさを伝えて
自分もやってみようと勇気をお分けできる
ブログを目指して執筆しています。
Contents
なぜ50才からのチャレンジなのか
高1で出会った油絵にどハマり!
高校1年生の芸術の選択科目で美術を選んだボクは
その初回の授業が、
有名絵画の模写でした。
ボクは佐伯祐三の絵を選んで
油絵の具で描き始めたんだけど
それがどハマり!
印象派的な描き方でペインティングナイフで
キャンバスに絵具を塗りたくる技が
面白くて仕方がなかった。
他のクラスに潜り込む
あまりにも絵の続きが描きたかったボクは
水泳の授業をサボって
なんと他のクラスの美術の授業に潜り込んで
絵の続きを描いたのです。
順調にバレずに楽しく絵を描き進めていたんだけど
それなりに絵が上手かったものだから
先生の目に止まってしまって
バレちゃいました💧
何故か隣の書道の先生に
往復ピンタ10回ぐらい殴られて
生徒指導室に連れて行かれました。
でも、その生徒指導の先生は
話の分かる先生だったなぁ
理由を話すと
「今年の1年生はなかなか見込みのあるやつが入ってきたなぁ」
と、面白がってくれました。
今だに思います。
あのとき絵の続きを描きたいという
衝動、情熱のままに行動したことは
褒められたことではないかもしれないけど
ボクは間違ったことをしていないと。
こういう自分の心に素直になること
この衝動、タイミングを逃さず動くことは
凄く大切なことだと思っています。
人生最大の選択ミス!
と、言うことで、これがきっかけで
油絵にハマって、
さらに佐伯祐三の展覧会にも足を運んで
ファンになり、その他の印象画にも
魅了されることになったのです。
ところが、やがて進路を考えるとき
ボクは人生最大の選択ミスをしたのです。
その後の人生30年間、後悔することに…
ボクは絵を描きたかったのに、
それでは食べていけないだろうと思い
グラフィックデザイナーの道を選択してしまったのです…
ボクには家庭を持ちたいという希望もあったから
総合的に判断して、絵の道を避けたんです。
今考えたら、学校や絵画教室の先生にもなれただろうし、
学芸員とか、絵の仕事で食べていきながら、
作品制作することは、できたはずなんですよね…
でも、当時のボクには、そんな考えもなく、
誰かに相談もせずに決めてしまったんですね。
この判断ミスは先へ行けば行くほど
ボディブローのように効いてきました。
特にグラフィックデザイナーなんて世界は
それが大好きな連中ばかりで
情熱で劣るボクが太刀打ちできるほど
甘い世界ではなかったのです。
よく「好きなことして食べて行けるほど
世の中あまくない」って言われてますが、
ボクが体験して分かったことは、
「好きでもないことをして食べて行けるほど世の中あまくない」ということです。
それでも持ち前のセンス?器用さ?で
なんとか25年間、アートディレクターも
務めて、一流にはなれなかったけど
第一線で活躍することができました。
とはいえ、何度も何度も辞めたい気持ちになり
なんか自分にしっくりこない
違和感を感じていました。
自分だけ取り残されていくような
恐怖感も味わいましたね。
家庭もあって、経済的に余裕もなくて
夜遅くまで残業して、休日出勤も多かった…
なかなか、本当にやりたかったことへ
舵を切り直すことは難しかったんです。
たくさんのものを失って…
やがて転機が訪れます。
仕事での不満はあったものの
子供も2人できて、家庭の温もりも味わって
マンションも買って
順風満帆のように見えたのですが、
ここに来て、ツケが回ってきたのです。
新しい社長に代わって、評価の基準が変わり
次々と優秀な人がリストラされていったのです。
そして
遂にボクも会社を追われることになったのです。
46才のときでした。
ボクがやってきた仕事は
通販カタログのベルメゾン一本。
旗艦媒体の専属ディレクターを任されて
各方面のプロフェッショナル、
カメラマン、スタイリスト、ヘアメイク、
コピーライター、イラストレーターの方々と共に
意見を戦わせ、その指揮をとってきたけど…
転職を迫られたとき、なかなか通販をやってる
次の会社を見つけることはできませんでした。
いっそのこと第二の人生、
全然違う職種も考えて
山ほど面接に行きました。
焼鳥屋の焼き士や、ラーメン屋もいいなぁとか
製造業や、運送会社、
介護の仕事も3日間お世話になりました。
介護職はとてもやりがいがあり
給料は低いけどこれにしようと
思いが決まったとき
事故で痛めていた腰に痛みが走り、
結局、以前のデザイナー経験を生かせる
通販会社に派遣社員として就いたのです。
すぐに正社員に取り立てて頂いたものの
20才も年下の女の子に教わり
この歳から新しいことを覚えるのは大変で
毎日会社に叱られに行ってるようなものでした。
以前のボクを知ってる人からしたら
さぞ惨めに映ったことでしょう。
給料が下がるなら補うのが当然だと妻に言われ
会社を終えると、夜からお好み焼き屋でアルバイト、
休日はカレー屋でアルバイトでした。
新しいことを3つもいっぺんに覚えようとして
かえって満足に覚えられなかった…
仕事を失い、給料は半分、役職もなくなり、
ついには妻からは離婚を切り出され
ボクは、家も家族も失ってしまったのです…
死んでしまいたいと思ったこともありました。
やり残した事
いろんなものを失って、
会社も一からの出直しで
惨めですよね…
これまでの人生、
正直、恋愛もしてきたし、
家族も持てたし
仕事もいっぱいしてきたし
やりたいこともいろいろやったし
十分生きたな〜って思いました。
会社で屈辱を感じ、
子供に会えなくて涙が溢れたとき
もう、死んでもいいかな〜って…
誰かの身代わりにでもなって死んで行けたら
親も悲しまないだろうと…
そう思ったとき…
一つだけやり残したことがあった…
絵です。
絵は満足いくまでまだ描けていない。
これだけはやってからでないと
死ねないと思ったのです。
ボクは絵画教室で油絵を習うことにしました。
結婚してるときだと、
高額の授業料もままならなかったけど
今なら自分の裁量で習いにいける。
3ヶ月で学び尽くそうと必死で聞き取りました。
知ってることがほとんどだったけど
油絵を習いにいって、本当に楽しかった!
描く喜びと情熱に火が付いたのが良かった。
その後も自宅で油絵を描きました。
3枚ぐらい描いた数ヶ月後、
新型コロナウイルスが発生したのです。
みんな巣ごもり生活になって
ところがボクが勤めていた
通販会社は逆に大忙しに…そして
1年間毎週毎週、休日出勤でした。
当然、絵は描けません。
でも、会社が繁盛してるんだからと
不満も言わずに働きました。
ところが、1年後、無理をし過ぎたのか
ボクの体に異変が起こりました。
体を壊して決意が新たに
最初は肩凝りのひどいぐらいだったのが
手のしびれ、腕・肩・首の痛み
なにより疲労感が激しく
会社を休みがちになってしまい、
半年後、遂に起き上がれなくなり
ボクは2ヶ月間、休職させてもらうことになった…
正直、働きながら、
自分は何のために生きてるんだろう?
絵を描くためだけに生きてたはずなのに…
と、思いはするものの、
じゃあ、どうすればいいのか
それを考える余裕がないほど
忙しく、疲れ果てていたのです。
この休職はボクの
人生に対するSOSでした。
この機会にしっかり自分の人生を考えようと
思いました。
ボクは絵を描きたい!
しかも、趣味としてではなく
絵で生計を立てたい。
今の職場でこの体では、もはや長くは働けない…
以前の俊敏に動けた体から今こんな体になって、
社長や上司、仲間を恨んだ時もあった…
今は自分のために生きよう…
体は一向に回復しなかったけど
ボクは絵で生計を立てるための
準備に取り掛かりました。
今しかできないと思ったからです。
絵で生きていくための方法を学びました。
このブログもそのための一つ。
超アナログ人間の自分が
ブログなど書ける自信はなかったけど
やってみるしかなかった。
体を休めながらも、個展を開けるよう
作品作りも始めました。
いろんな画材を試した。
抽象画、キラキラアート、
色鉛筆画、水彩画、クレヨン画、
そして、誕生したのが、「私のオジサン」!!
オジサン誕生秘話は別の機会に
お話ししますね。
個展開催に向けて加速しました!
しかし、体は悲鳴をあげていて
描きたくても描けない日が幾日もあった。
どれほどの病院を転々としただろう…
整形外科2軒、
整体院2軒、
血液検査、
更年期障害検査、
鍼灸整骨院、
医療費は高額になるばかり、
でも、どうしても治らない。
そして他府県の大きな整形外科を訪れて
先生は親身に話を聞いて、いろんなテストをして、
すぐにMRIを撮ることになりました。
そして分かったことが…
頚椎症が悪化していて
脊髄を圧迫するヘルニアが見当たり
手術の一歩手前との診断でした。
手術になると大がかりとなり
腕のいい外科医を探さないと
後遺症が残る危険な手術。
車いす生活になった人もいる…
ボクは、仕事中と絵を描くときは
首にコルセットを装着しないといけなくなった。
正直、首が固定されてロボットみたいで
格好わるいし、恥ずかしいけど、
これ以上悪化して手術にはなりたくなかった。
会社で初めてコルセットを装着したとき
誰も声を掛けてくれなかった。
見て見ないふりをされたり
ヒソヒソ言われているのが聞こえる。
でもコピーをとっているとき
一人の女性が声を掛けてくれた。
「首どうされたんですか?具合が悪いんですか?」
ボクはこの言葉を待っていた。
とても自然な言葉ではないですか?
そう、ボクは首の具合が悪くて
ただ医療器具を着けているだけだ。
ケガをしたら誰でも絆創膏を貼るようなもの。
格好悪いと思うことはやめようと思った。
自分が恥ずかしいと思うことは
同じ病気を持つ他の人たちを
偏見の目で見ていることに他ならない。
堂々としておこう。
回復しないまま復職したので
定時まで働けない体だった。
しかし、3時や4時に帰っていたのでは
仕事を回していくのが精一杯で
目の行き届く十分な仕事はできなかった。
ついに限界を感じ、
これ以上みんなに迷惑をかけられないと思い
社長に退職を願い出ました。
社長と話し合った結果、
引き止められる形で、私は正社員から
3時までのパートという形に
契約を変更してもらったのです。
もう無理はしないで
できる範囲のことをする。
ボクがつい無理をする性格だと
社長は見抜いたのかもしれません。
もちろん給料は2/3になり
生活するのがギリギリでした。
老後の貯蓄も大して無いのに
少しずつ貯蓄が減っていってるかもしれない。
たとえ首を切られたとしても
それならそれで構わないと思っていました。
どうせ絵で食っていくと決めていることです。
全力で絵に当たる時間ができるし
退路を断つことで覚悟が定まるからです。
ボクはここで終わるつもりはありません。
勝負事にはめっぽう強い方なので(笑)
幼いときから根拠のない自信があり
自分が本気を出せば
とてつもない力を発揮できることを
観念的に知っていたのです。
3年以内に絵画教室を開講し
画家での生計100%への転身を
実現することはもちろん
ボクの最終的な目標は
後世に名画を遺すことです。
まずは、2022年秋のMuuアート初個展
「私のオジサン展 in OSAKA」に向けて
全力で取り組んでいます!
来年は阪急百貨店での個展開催も決定しました。
充実した毎日、好きなことができる幸せ。
老人ホームに入居する人に共通の後悔は
「勇気を出して思い切ったことに挑戦すれば良かった」です。
何も挑戦しないまま死ぬ訳にはいきません。
逆に言えば、思いっきりやれるだけやれば
いつ死んでも構わないのです。
体はなかなか良くならないけど
ボクは今からでも、アートの道で
生計を立てられるよう挑戦できていることを
大変幸せに思っています。
ボクの夢は、
STORY絵画「私のオジサン」を通して
子供たちの情操教育に役立ち
老若男女を問わず、世界中の人に愛をお届けし
「私のオジサン」が
「世界のオジサン」へと
羽ばたいて行くことです。
画家活動を始めて分かったことは
ボク一人の力ではたかがしれているということ。
みなさんの応援がなによりの励みになり
夢の実現に欠かせないものです。
53才からのボクの挑戦を
どうか応援くださいませ!
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第20回 ZEN展 東京都美術館 準優秀賞
チャリTシャツグランプリ 入選
六本木フラッグコンテスト 入選
元JAGDA日本グラフィックデザイナー協会会員
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